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2022-01-23

あかいカニの家①

カニの絵

雲垂れて 路地に湧き出す 蟹の赤

くもたれて ろじにわきだす かにのあか


そのころ十才になったばかりの浩太こうたの一家は空襲が激しくなってきた
東京を離れて千葉県の太平洋に面した海辺の小さな町に移り住んでいました。
赤いカわら屋根をしたその家は元々は別荘で浩太がまだ赤ん坊のときから一家は毎年この家で一夏を。を過ごしてきたのでした。
家のすぐ裏手には市中を東西に走っている細い川が流れていて川には鯉やふなの他に満潮になると潮の流れにのって海のさかなが上がって来ます。
そしてこれもまた夏になると海から河へ流れにのってやってくるのか、それとも堀から湧き出てくるのか、あかいカニが路地へと上がって来るのでした。
浩太の家の庭先にもあかいカニが時々顔を出します。
「お兄ちゃん、今見たら柳の下にあかいカニがいたよ。」
こんなときいつも最初に見つけてくるのは妹のさよでした。
「えっ、柳の下。そりゃあたいへんだ。このまま放置しておくわけにはいかん。さあ、行くぞ。」
何がたいへんなのかそう言っている浩太自信わかってはいないのですが番犬のような
勢いで妹のさよをつれて庭に飛び出していくのでした。そしてカニと追いかけっこをしたり あるいはここではあまり話せないような気の毒なことをカニにしたりしては妹と二人で遊ぶのです。
学校が夏休みに入ってまもない日の夜のことです。
浩太とさよは夕食がすむと かやをつった奥の座敷で先に休んでいました。
隣に寝ているさよはもう鼻の頭に汗をかいて寝息をすうすう立てています。
今日は浜で学校の水泳訓練があったのです。
いつもは自分の方が先に眠りに落ちるのに今夜は先を越されてしまったと浩太は思いました。
茶の間ではまだ両親が何か話していましたが浩太にはその声がまるで感度の悪いラジオのように大きくなったり小さくなったりして聞こえていました。
最近の浩太ときたらお父さんともお母さんともなかなかうまく話せないことが多いのです。どうしてってこのところ両親は浩太に対してますます優しくなってきてそれがやさしくしてもらえばもらうほど浩太をさびしくさせているのでした。
浩太はなかなか寝付けなくてしばらく青いかやの天井を見つめていました。
すると庭の方で何かざわざわしているような気配を感じました。
ざわざわといっても夜風が木々の葉をゆすっている音とはちがいます。
なにか得体の知れないものがそこにいて平穏な夜の空気をざわつかせているという感じなのです。
浩太はふとんから上半身を起こすと網戸から夜の庭を見ました。
百日紅の太い木がかえでの低木を従えるように薄墨色の空気を透かして
立っているのが見えますがその背後に昼間にはなかったような木立の影がのぞいているようにも感じられます。
でもよくわかりません。あのざわざわという気配は庭のもっと奥の方からしているのかもしれません。
浩太はもうそれがなんなのか確かめずにはいられませんでした。
そっとかやから出ると木のサンダルを引っ掛けて庭に下りました。そして川辺に近い庭の奥の方に歩いて行くと足が止まりました。
いたのです。いたのです。
そこに思いもしないものが。
立っていたのです。
それは人の背丈ほどもある大きなあかいカニでした。
カニは柳の木の隣に立って飛び出した二つの目玉を浩太の方に向けていました。
厚い甲羅は銅板のように暗がりの中で赤く光っています。
浩太はその大きさにどぎもをぬかれておもわず「でけぇ。」とつぶやいていました。
でも不思議と怖さを感じなかったのはその浩太を見る大きな二つの目玉が
思いがけずやさしげな光を放っていたせいかもしれません。
浩太は一歩ずつその大きなあかいカニに近付いていきました。カニはじっとして動きません。とうとう手が届くぐらいのところに近付くと何か声がしました。
浩太がぎょっとして「今のはどこから。」と行ってあたりを見回していると
「ここだよ、浩太。」というひどくくぐもった声が近くで聞こえました。その声はカニの体の中の方から聞こえているようです。
するとカニの甲羅の一部がぱかりと割れてそれが扉のように開いたかと思うと「浩太、こっちだよ。中にお入りよ。」というなつかしい声がカニの中からしました。
「えっ、兄さんなの。えっ、そこにいるのは賢治兄さんなの。」
浩太は驚いて大きなカニの甲羅の一部がとびらのように開いて穴のようになっているところにかけよりました。
そこから顔を出して浩太を出迎えてくれたのはまぎれもなく賢治兄さんでした。
真っ白なシャツを着て頭には赤いヘルメッとをかぶっていましたが、その顔は去年亡くなったときの賢治兄さんのものでした。
「やあ、浩太。よく来たね。中にお入り」と賢治兄さんは明るい声で言います。
「ああ、賢治兄さん、こんなところにいたなんて知らなかったよ。でも兄さんに会えてうれしい。」と浩太は言いました。
「父さんも母さんもさよもみんな元気にやってるんだろう。」と兄さんは言います。
「うん、みんな元気だよ。これで兄さんがいればもうなんにもいらないのに。」と浩太は言いました。
「まあ、しかたないよ。すんだことはもういいじゃないか。みんな元気ならなによりだよ。」
そんなことを言って兄弟はだきあってから「せっかくだからおまえも中に入ってごらんよ。」と兄さんは言います。そして浩太の手を引いてカニの中に入れてくれました。
カニの中は思ったより広くてがらんとしていました。車の運転席と助手席のように具合良く二つのこぶができていて何とかそこに人間が二人並んで腰かけることができました。兄さんは先に運転席に腰を下ろすと隣の助手席に浩太を座らせました。
「すごい、なんだか戦車の中に入ったみたいだよ。」と浩太は興奮して言いました。
「こいつは戦車なんかよりずっとすごいんだぞ。」と兄さんは言います。
二人の目の前にある壁は鏡のようになっていてそこに浩太の家の夜の庭の様子が映っていましたがそれは昼間とまではいえないものの夜とは思えないほど明るくはっきりとしたものでした。どうしてここに外の様子が映っているのだろうかとよくよく観察してみるとカニの二つの目玉が潜水艦のスコープの役目をしているらしいのです。
「さあ、そこのとびらを閉めて。」と兄さんに言われて浩太は手を伸ばすとあかい甲羅のとびらを閉めました。
運転席に座っている兄さんの前には左右と真ん中に一本ずつ足元から胸の高さぐらいに棒のようなものが突き出ていました。兄さんがその三本のうちの右側の棒のようなものを動かすと二人の入っているカニがぐらりと揺れてそれからゆっくりと動き始めました。
カサリ・カサリ・カサリ
カサリ・カサリ・カサリ
カニの脚が地面を踏みしめる音が足元から聞こえます。
カサリ・カサリ・カサリ
カサリ・カサリ・カサリ
車よりもかえって静かなのは以外でした。
「これはすごいよ。兄さん。」と浩太は叫んでいました。
「まだ驚くのは早いぞ。」と兄さんは言います。
目の前の鏡を見ると二人をのせたカニが庭の裏木戸から外に出て行くのが映っています。
「兄さん、外に出てもだいじょうぶなの。だれかに見つかったりしたらたいへんだよ。」と浩太は少し心配になって言いました。
「ああ、それなら心配ないよ。今にわかるさ。」と兄さんは言います。
二人をのせた大きなカニは川の近くに出るとそのまま川辺に下りていきました。
ばしゃばしゃと水音を立てて河の中に入って行きます。
「このままいっきに向こう岸まで横断するよ。」と兄さんは言います。
カニが浅瀬からしだいに深いところに入って行くのが中にいてもよくわかりました。
あかい甲羅の壁に波が当たっているのが聞こえます。
河はさらに深くなってカニの目玉がもう少しで水にかぶさるぐらいまで来ているのが目の前の鏡に映っていました。
「兄さん、だいぶ深いとこまで来たけどだいじょうぶ。」
「だいじょうぶだよ。もっと深いところを渡ったことだってあるからね。」
「でも足が立たなくなったらどうするの」と浩太が尋ねると
「そうしたら潜水艦みたいに水中にもぐって進むことだってできるんだよ。」と兄さんは言います。
「へぇ、潜水艦。すごいね兄さん。」と浩太は言いました。
でもカニの目玉まで水がかぶさることはありませんでした。二人ののったカニはまっすぐに向こう岸へ上がることができました。
それから二人はカニにのったままで川辺を歩いたり近くの山の中を探検したりときには人家の見える畑の小道を行ったりもしました。
でも農家の家の近くを通ったときに一度番犬に見つかって激しく吠えられた以外はだれにも見つかることはありませんでした。
二人は畑の小道を犬の声が聞こえないところまで来るとそこで一休みしました。
「ああ、楽しかった。」と浩太は言いました。
「ああ、ほんとだね。楽しかった」と兄さんも言います。
「なんだかのどがかわいちゃったよ。兄さんは。」
「ああ、そうだね。それじゃあトマト食おうか。」
「トマト、どこにあるの。」と浩太は辺りを見回しました。
「ほら、ぼくたちがいる畑をごらんよ。」と兄さんが言うので 鏡で外の様子を確認するとどうやら二人のいるところはトマト畑のようでした。
「今 トマトを取ってみるからよく見ててごらん。」
兄さんはそう言うと自分の前にある三本のうちの左の棒のようなものを少し動かして見せます。すると大きなはさみの付いているカニの太い腕がゆっくりと動き始めました。浩太はびっくりしてその様子を映している目の前の鏡を見つめました。赤く熟したトマトにねらいを定めると大きなはさみの付いたあかい腕が近付いていきます。
「もうちょっと左。そうそう。その調子、その調子。」と浩太は知らず知らずに言っていました。
大きなぎざぎざの付いたはさみはとうとう赤いトマトをつかむと一ひねりしてトマトの木からもぎ取りました。そして今度はつかんだトマトの実を落とさないように手元に引き寄せました。
「浩太、頭の上を見ていてごらん。」と兄さんが言うので 浩太は鏡の上の天井に近いところを注意して見ていました。
するとその部分が小窓のようにぱかりと開いてそこから一筋の月光と共に赤いトマトが降ってきました。
「あっ。」と浩太は叫んで手を出しました。
次の瞬間にはトマトは浩太の手の中に入っていました。
浩太はさっそくその赤いトマトにかぶりつくとのどをならして食べました。
赤く熟したちょうど食べごろのトマトでした。夜の潮風にふかれていたせいか ひんやりと少し塩味がついていました。
「こんなうまいトマトは食べたことないよ。」と浩太は言いました。
「ほんとだ」と兄さんも言うので、浩太は横目でちらりと兄さんの方を見ました。すると兄さんもやっぱり自分と同じようにのどをならしてトマトを食べています。それで浩太は少しほっとしました。もしかしたらと浩太はちょっと心配だったのです。
でもよくよく注意して見ると兄さんの食べているはずのトマトはなかなか減らないようにも見えました。
もう一度しばらくして横目で確認するともう兄さんの手にはトマトも何もありませんでした。
そして気が付いたときには今までずっと聞けなかったことを聞いていました。
「兄さん、正直に言ってもらってかまわないんだけど。兄さんが亡くなったのはやっぱりぼくが押入れの置くから見つけてきたあの古い羊羹ようかんのせいなんでしょう。
あの羊羹に付いていた赤いかびみたいなやつが毒だったんでしょう。」と浩太は言いました。
すると兄さんは笑って言います。
「なんだ、浩太そんなこと気にしてたのか。あんなもの全然毒なんかじゃないよ。川の鯉もみんなうまそうに食ってたじゃないか。」
「そうなの。だって、ぼく。」と浩太はもうそれ以上なにも言えなくなりました。
「ばかだなぁ、そんなこと気にするやつがあるか。そんなことでおれが亡くなったりするものか。兄さんは生まれつき心臓が弱かったからね それがいけなかったんだよ。」
兄さんはそう言うと浩太の頭にそっと手を置きます。
「でもずっと心配だったんた。あの羊羹のせいで兄さんが。」と浩太は言いました。
「そうか。あんなことがあったすぐ次の日だったからな。おまえには心配させて
兄さんこそもうしわけなかったよ。」
「そうだよ兄さん。どうせならもう一週間ぐらいあとにしてくれればよかったんだ。」
「そうだったぁ。兄さんが気が利かなかった。今度から気をつけなくちゃな。」と兄さんはわらいました。
「そうだよ。約束だよ。」と浩太は言いました。
「そうだな。今度はそうしようね。」と兄さんは言いました。
帰りは運転席と助手席の位置を交代して浩太がカニを動かして家までもどりました。
来たときとおなじように川を渡って庭の裏木戸を通って自分の庭まで帰ってくると浩太は柳の木のそばにカニを止めました。
赤い甲羅のとびらを開けると
「じゃあ、あしたの夜もまた遊びにおいで。」と兄さんは言います。
「うん、かららず来るからね。」と浩太は言いました。それからちょっと心配になって
「でも兄さん、こんな大きなカニに乗っているとすぐ見つかっちゃうよ。明るくなったらよほど気をつけないと。」と言いました。
「ああ、それなら心配ないよ。このカニはね。日の光を受けるとだんだん小さくなってすっかり明るくなるころにはふつうの大きさのカニと区別がつかないくらいになるんだ。もちろん暗くなるとまた大きくなるんだけどね。」
「なんだ。そうだったんだ。」と浩太は感心したように言いました。
カニは浩太を地面に下ろすと カサリ・カサリ・カサリと音を響かせて裏木戸を出て夜の闇の中に帰っていきました。
オオキナ赤いカニを見送っているうちに浩太はカニを運転しているのが兄さんのはずなのに なんだか兄さんがカニの運転手にされているような気がしたり そうかと思うとあのオオキナ赤いカニそのものが兄さんのようにも感じられて不思議な気がするのでした。
カサリカサリというカニの足音だけがいつまでも浩太の耳に残されました。

(あかいカニの家②へ続く)

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