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2022-04-28

あかいカニの家②

カニの絵


それから七日間浩太は賢治兄さんといっしょにカニに乗って夜の街を歩き回りました。
一晩中兄さんと遊びまわって帰ってみると まだほんの半時間ほどしかたっていないのが不思議でした。それで妹にも両親にも気付かれないうちに自分のふとんの上にもどることができたのです。
こんな楽しい夏休みは今まで一度もなかったと浩太は思いました。そして毎日夜が来るのが待ちきれませんでした。
しかし八日目の夜いつものように柳の木のところに行って見ると大きなカニはぼんやりと立ったままでいくら声をかけても賢治兄さんは出てきません。
しかたなく帰ろうとしてあかい甲羅のとびらを押してみるとそれはぱかんと開いて中からヒンヤリとした空気がこぼれました。
「兄さん、いないの。」と言いながら中をのぞくと カニの中はがらんとして鉄さびの様なにおいがします。
「兄さんいないんだ。」
浩太はそう言ってあきらめたように赤い甲羅のとびらを閉めかけましたが 途中で気が変わってその手を止めるとまた中を覗いて
「兄さんいないの。」と もう一度言いました。
それから胸をどきどきさせてカニの中に入ってみます。
(あれ、兄さんいないんだね。」
浩太はまるで今調度着いたばかりとでもいった調子でだれかに言うみたいにそう言いました。
それから今まで兄さんが座っていたこぶの座席に腰掛けました。
二人だとさすがに窮屈に思えたカニの中も一人だとゆったりと感じられます。
座席の代わりになっている二つのこぶの内浩太が座っていた席の上には赤いヘルメットが置いてありました。
浩太が試しにその赤いヘルメットをかぶってみるとそれは浩太の頭にピッタリの大きさでした。
「しょうがないね。兄さんがいないんじゃぼくが運転するしかないものね。」
浩太はまただれかに聞かせるみたいにそう言うと車のクラッチのように席のわきに飛び出している棒のようなものをつかみました。
兄さんがいないのは残念でしたがカニの動かし方は兄さんから充分に教わっていたので その夜は一人で夜の街をカニに乗って歩き回りました。
翌日もその翌日も兄さんは姿を見せることはありませんでした。
そうやって十日が過ぎると浩太はもう兄さんは来ないのかもしれないと思うようになりました。そして二週間たつと一人でカニに乗ることにも少しずつ慣れていきました。

悲しい出来事は突然やって来ました。
その夜も浩太が大きなカニに乗って夜の街を歩いていると南の丘の方から空襲警報のサイレンが聞こえました。
みなそれが聞こえるといっせいに家を出て防空壕に隠れるのです。
でも浩太のいる海辺の小さな町にはそれほどたくさんの爆弾が落とされることはありませんでした。彼らはたいがい海辺の町の上空を通って東京へ向かうのでした。そしてそこでたくさんの爆弾を落として帰っていくのです。
でもときどきは
「おまえたちにも手土産をくれてやる。アーラヨット。」とばかりに何発かの爆弾をこの小さな町にも落としていくのでした。
浩太があわててうちに帰ったときにはもう赤いかわら屋根の家はすっかり火に包まれていました。浩太はカニから降りることも忘れて家の方へ飛び出していきました。
いつも両親がいるはずの茶の間のあたりはもう火の海でした。もうだめだと浩太は思いました。
そのときどこかで「おにいちゃん」という声を聞いたような気がしました。
あれはきっとさよの声にちがいないと浩太は思いました。それでいつもさよが
浩太といっしょに寝ている奥の座敷の方にカニの姿で入って行きました。
白い煙の無効になにか小さな影が動いているように見えます。
浩太は火に包まれた奥座敷に近付いていくと頭の上にぶら下がっていたひものようなものを思いっきり引っ張りました。するとカニの二つの目玉の下のあたりから大量のあわがふっとふきだしました。浩太が立て続けにひもを引くとまたあわがふき出ました。あわのかかったところは確かに火の勢いが弱まっています。
浩太はそれに勇気付けられてますますひもを引きつつけました。
でも三十回ぐらい引くともうあわは出なくなりました。浩太はもう一度河に行ってカニに水を飲ませてこようかと迷いましたが、そんなことをしている時間はないと思うと、火の勢いの弱まったところにどんどん入って行きました。
火の中に入るとカニの中はもう息苦しいほどの熱さでした。厚い銅板のような甲羅もとうとう火が着きました。それでも浩太は妹のさよを捜し続けました。
さよは奥座敷と茶の間の間の廊下に倒れていました。
浩太は大きなはさみのついたカニの腕を動かしてさよのからだをつかみました。
そして二つの大きなはさみでさよの肩とおしりのあたりをつかむとゆっくりと持ち上げました。さよはめを閉じたままじっとしています。浩太は絶対に落とさないように少しずつ火の中を後ずさりしていきました。そしてとうとう火の中から妹を助けだすことができたのです。
浩太はさよを安全な庭の外れの柳の木の下に寝かせました。さよはまだ目を閉じたままでしたが、髪が少し焼けてちぢれただけで体にはやけどをした様子はなく、胸が呼吸に合わせるかのように静かに上下しているのがわかって少し安心しました。
河の流れの中に入ると甲羅がジュっと鳴りました。火はすぐに消えました。火はあかい甲羅の表面を少し焼いただけで銅板のような厚い甲羅に穴があいたりすることはありませんでした。
しかし甲羅がだいじょうぶだとわかっても浩太には少しもうれしくはありませんでした。目の前で自分たちの家が焼けたのです。そしてその中で両親が亡くなったのです。
もう少し早く帰ることができたら助けてあげられたのにと悔やまれました。空襲警報のサイレンを聞いたときにはまたいつものサイレンが
鳴っているとしか思わなかったのです。あのときすぐにもどっていれば もしかしたらと浩太は思うのです。
そして両親はどうして早く言えから逃げ出さなかったのかと想像すると自分はもう取り返しのつかないことをしてしまったのだという気持ちになるのでした。
浩太はカニを河の中に沈めたまましばらく泣いていました。
それからはっとして妹はあの後どうなったのかと思いました。
カニに乗ったまま河から出ると庭の柳の木の下のところに
もどってみました。しかしそこには妹の姿はありませんでした。
「どうしたんだろう。どこに行っちゃったんだろう。」と浩太はつぶやきました。
あの様子では自分で起き上がって歩いていけるとはとても思えません。
そう思うと涙がどっとあふれました。
そうです。
そうだったのです。あれはまぼろしだったんだと
浩太は思いました。あの火の海の中で自分は幻を見ていたんだ。
幻の妹を助けようとしてあんなに夢中になっていたんだと思いました。
もしもあれが幻でなければあの火の中で妹だけがあんなにきれいな姿で見つかるはずはありません。ぼくがあの大きなはさみで救い上げたのはきっと妹の幻だったんだと浩太は思いました。

それから浩太はカニに乗ったまま河の中にもどりました。そして河の中で三日三晩泣いて暮らしました。
そして四日目の朝久しぶりにカニの外にでてみようとして甲羅のとびらが開かないことに気付きました。ああそうだったんだと浩太は思いました。
火に焼けた甲羅の表面を河の水の中に着けているうちにとびらのふちが溶けてくっついてしまったのです。
いつもの浩太ならきっとあわてて何度も体当たりしてとびらを壊してでも出ようとしたかもしれません。
しかしそのときの浩太はとびらが開かないということなどたいへんなことだとは思いませんでした。カニの外に出られたからといって
いったいどんないいことがあるというのでしょう。両親も妹もいないがれきと化したあの家にもどって何をするというのでしょう。それならこの賢治兄さんが残してくれたこのカニといっしょに自由に暮らす方がどんなにいいかと浩太は思いました。

数日して亡くなった両親の葬式が近くの寺でおこなわれる事を浩太は知りました。
それでカニの姿で寺の庭先からもぐりこんでみました。
葬式には浩太の知っている親戚や近所の人が来ていて、お坊さんの説教がすむと中からぱらぱらと寺の庭先に出てきました。墓地に向かう境内の小道を歩きながら雑談している声が聞こえてきます。
「両親の骨は見つかったのにまだ男の子の骨はとうとう出てこなかったそうだよ。」
「はあ、そうらしいね。まともに屋根に落ちたからきっと子供の骨じゃ
こっぱみじんになっちまったのかもしれないね。」
「そうだね。きっとそうなんだろうね。まあ妹のさよちゃんだけはなんとか助かったのがせめてもの救いってことになるのかなぁ。」
「でもどうするんだい、あの子。」
「なんでも生前親しくしてた町長の兄弟で子供のない家がいて栃木の方にもらわれるらしいよ。」
「へぇ、そりゅあよかった。いまどきそんな家もあるんだね。」
浩太はその話を聞くとあれ以来初めて喜びにからだが包まれるのを感じました。
その歓喜の波は浩太と浩太のいるカニの甲羅全体をおおいました。
「さよは生きていたんだ。さよは生きていてくれたんだ」
浩太は心の中で叫びました。
「あのときぼくが救い出したのは妹の幻なんかじゃなかったんだ」と浩太は思いました。
それは浩太にとって希望の光の一筋でした。
浩太はカニの姿で境内を歩き回って妹を捜してみました。でもどういうわけか妹は寺には来ていないようでした。きっとまだあのできごとから立ち直ってはいないのだろう。それともあるいはもう栃木の家にもらわれていってしまったのかもしれないとも考えました。
でもさよが活きていてくれたと知って自分はもう一生カニの姿でもかまわないと浩太は思いました。このカニの銅板のような厚い甲羅と大きなはさみがあったからこそあの火の海から妹を救うことができたのです。とびらがあかなくなったくらいなんでしょう。命を一つ拾うためにはその代わりに自分の命を投げ出すくらいはあたりまえな時代でした。
捜すのをあきらめて境内のつばきの陰で休んでいるとやはり葬式に来ていた近所の男の人が二人でたばこをやりながら話す声が聞こえてきました。
男の人はそれまでとは違って少し声を低くすると
「なあ、へんな話を聞いたんだけど。あの夜にあかい大きなカニが火の家のそばに立っていたそうだよ。」
「へぇ、大きいカニ。さっき子供らが境内に大きなカニがいたって騒いでたぞ。」
「いやちがうよ。そんなのじゃないって。なんでも人の背丈ほどもあるような大きなカニだったそうだ。」
「へぇ、そんなでかいカニがいるのかね。気持ちわるい話だね。そのカニがまさかあの家に災いを招いたんじゃないだろうね。」
「ううん、どうかな。なんでもあわのようなものをふきだして火を消そうとしていたらしい。もっともそれで火がけせるほどの力はなかったってわけだが。」
「ほお、そうかい。そんな大きなカニがいるとは奇妙な話だね。」
男たちはそう言うとたばこの煙を一筋残して立ち去って行きました。

(あかいカニの家③へ続く)

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