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2020-03-16

12. フランスみやげのガレット

 

フランスみやげのガレット  詞・曲 わららべ尚道

フランスみやげの ガレットクッキー
モンサンミッシェルの絵はがきそえて
快晴 浪高し はがきのことばは
人生行路の こころの風景

取るに足らないことに 希望は色あせて
ひとり胸にかかえて 旅に出かけた

こころの風景も 空模様と
おなじように うけとめなさいと
旅先で出会った修道僧の
かざらないことばが こころのお薬

フランスみやげの ガレットクッキー
モンサンミッシェルの思い出そえて
プラールおばさんのフワフワオムレツ
へこんだ気持ちも しばらく忘れて

思いがけないことに 人は傷ついて
眠れぬ夜を重ね 鳥の歌を聞く

風にふるえる梢ではなく
風そのものが わたしなのだと
冬空 流されて 古城を飛び交う
かもめのすがたに 何かを感じた

取るに足らないことに 希望は色あせて
ひとり胸にかかえて 旅に出かけた

こころの風景も 空模様と
おなじように うけとめなさいと
旅先で出会った修道僧の
かざらないことばが こころのお薬

 

メロディーといっしょに出てきたフレーズ

この歌は曲が先に出来ていて、後から歌詞をつけた曲です。
でも最初の「フランスみやげの‥‥」というところはメロディーの時に歌詞もいっしょに出てきたのでした。
こういう時に出てきたことばは案外大切なものです。
「フランスみやげの」と出てきて、次はどうするということになりました。
そこで身の回りにあるフランスの商品ということで見つけたのがレモン味のガレットクッキーでした。
このガレットクッキーを地元の産物として売っているのがモン・サン=ミッシェルでした。
モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)は、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島、及びその上にそびえる修道院です。
カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称されているそうです。

 

詩句の解説

ここでは、歌の終盤に出てくる「こころの風景は 空模様と同じように受け止めなさい」という詩句について考えてみましょう。
こころの風景とは 日々の出来事によって引き起こされる刹那の感情や心象風景のことです。それらは空模様と同じように受け止めなさいということ、空模様をいつまでも気にする人はいませんね。あいにくの雨となればもうしょうがないとなります。昨日の快晴は素晴らしいといってもいつまでもそのことをこころにとどめている人はいないでしょう。
こころの風景もまた空模様と向き合うように日々 手放していきましょうということです。

この詩句はニサルガダッタ・マハラジの「わたしは在る」の著作を通して語られている世界の影響下にあるものです。ここにある引用はすべて「ニサルガダッタ・マハラジ」の「わたしは在る I AM THAT」によるものです。

「人は世界は自分の外側にあり、感情は自分の内側にあると思い込んでいる。しかし実際はその逆なのだ。世界は内側にあり、感情は外側にある。」とニサルガダッタ・マハラジは言っています。
どういうことでしょうか。
ニサルガダッタは以下のように説明しています。

たった一つあなたには誤りがある。
あなたは内面を外面と見ており、外面を内面として見ているのだ。
マインドと感情は外側にあるのだ。
だがあなたはそれらをもっとも内部にあるとみなしている。
あなたは世界が外界のものだと信じている。
だがそれは完全にあなたの精神の東映なのだ。
これが混乱の根本であり‥‥」 (51章より)

と言っています。
また、

「理解すべき主要な点はあなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶を元とした創造の世界を投影したということだ。そしてその中にあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。
~中略~
この世界が意識のスクリーン上に あなたによって描かれたことは疑いないのだ。」
(44章より)

ここで「この世界が意識のスクリーン上にあなたによって描かれた」という一説について考えてみます。
この文章を読んで私には投影ということばが浮かびました。
投影ということで一番わかりやすい例は国境ではないでしょうか。
本来は地球の地表にはなにもないはずですが、そこに国境というものを投影することで国家というものが出現したのでした。
また、画家のセザンヌは自然は人の内側にあるというようなことを言いました。
これを私なりに解釈すると、例えば虫の音について日本人と外国人ではその印象が大きく異なるといいます。
日本人は秋の虫の音に季節の趣や美意識を感じてきました。
それにたいして異なる文化圏の人たちはただの雑音としてしか受け取っていないと言われることがあります。これは自然に対する世界観の違いでしょう。
世界がどのように描かれるかというその原因がわれわれの内側にあるという意味がわかってきたのではないでしょうか。
われわれはこころの中のフィルムを外側の事物に投影して、それを世界として見ているわけです。

「通りの往来をみるようにあなたの思考を見守りなさい。
束縛を永続させるのは感情的つながりなのだ。
あなたはつねに快楽を求め苦痛を避けている。
あなたの幸福への探求自体があなたをみじめに感じさせているのがわからないだろうか。
苦痛と快楽に無関心でありなさい。
(51章より)

「通りの往来をみるようにあなたの思考を見守りなさい。」
「通りの往来をみるように」とはいいですね。さまざまな人間模様を気軽にながめているのは楽しいものです。

あなたの幸福への探求自体があなたをみじめに感じさせているのがわからないだろうか。
苦痛と快楽に無関心でありなさい。
全く無関心というわけにはいかないのがこの浮世に生きる人なのでしょうが、それでもいつまでもそれを掴んでいないで手放したいものです。
そのために空模様を眺めるように受け止めなさいということなのでしょう。

昔、「自分探し」というフレーズが流行したことがありました。
しかし私にいわせれば、「自分は誰か」、「自分とは何か」と、とあれやこれや上書きすることはひたすら自分というものを漆塗りのように濃厚にすることであって、むしろするべきことは自分を希薄なものとして受け止めるようにすることではないのかと思うのです。
自分探しではなく 自分を薄める旅こそがたいせつではと。
だからこそ、空模様を眺めるように、あるいは通りを眺めるようにという比喩が使われるのでしょう。

快楽と苦痛、幸福と不幸、それは一つの裏表です。
東があれば西があるように、上があれば下があるように、どちらかだけを受け取って、受け取りたくないものを拒むことはできません。
それでも人としてどうにも避けたいと思うこともあるでしょう。
例えば 命の誕生の喜びと喪失の悲しみ。
仏教説話にこんな話があります。
子供を亡くした母親が、ブッダに子供を生き返らせてほしいと嘆願します。
それに対してブッダは、この国でひとりも子供を亡くしたことがないという家を見つけたら願いを叶えてあげようと言います。
母親は必死になって家の戸を叩いて訪ねて歩きますが、どこの家も子供を亡くした経験のある人たちばかりであることを知ります。
私ひとりだけの不幸という思いが実は私たちの不幸でもあったことを知るのです。
それが悲しみを手放す力となることをブッダは知っていたのでしょう。

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