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2020-01-19

9. 水仙王子

 

水仙王子  詞・曲 わららべ尚道

若き日の あやまちのとがで
神の手でここに置かれた
灰色の空の下 吹雪に
身動き一つできない わたし
首をすくめ やりすごす
土の中で 春を紡ぐ
それでも オーロラの狩人たちが
氷の槍を 降らして行く
銀色の光に つらぬかれて
わたしという意識が 風に飛ばされる
孤独な夢をさまよって 姫百合の君を思う

それでも 春の気配が
足音しのばせ 冬に忍び寄る
お日様も 鳥も土も
春のぬくもり 思い出していく

新しい季節の折り紙が 黄緑色の野原に変わる
はりつめた風の リボンをほどいて
今 純白の 花が咲く

青春の光も知らず 神の手で ここに置かれた
旅立ちの季節に立てず ひとり荒野に残された
窓を閉めて 冬ごもり 土の中で 春を紡ぐ
それでも オーロラの狩人たちが
氷の槍を 降らして行く
銀色の光に つらぬかれて
わたしという記憶が 風に散らされる
孤独な夢をさまよって 姫百合の君を思う

それでも 春の気配が
足音しのばせ 冬に忍び寄る
せせらぎも 波も 風も
春の呼吸を思い出して行く

新しい季節の折り紙が 黄緑色の野原に変わる
早春の光の リボンを結んで
今 りんと咲く 黄水仙

 

水仙王子はもしかしたらひきこもり王子なのかもしれません。

灰色の空の下 吹雪に
身動き一つできない わたし

一度ひきこもりのモードに入ると気持ちは内向し、自縄自縛という感じになっていきます。

首をすくめ やりすごす
土の中で 春を紡ぐ
それでも オーロラの狩人たちが
氷の槍を 降らして行く

彼は土の中で冬ごもりしてひたすら春を待ちます。

孤独な夢をさまよって 姫百合の君を思う

内向する精神はそれでも完全に停止することなく、自らの内側に架空の世界をを求めて行きます。その動きはやがて彼の中に時間の流れを作ります。それはあくまで彼の中にある時間の流れにすぎないのですが。

それでも 春の気配が
足音しのばせ 冬に忍び寄る
せせらぎも 波も 風も
春の呼吸を思い出して行く

やがてそれは窓の外の世界をうかがうようになって行きます。
風の様子、ヒザしの強さ、空の色、季節は少しずつしかし着実に動いていることを、小さな砂ぼこりのついてすっかり曇ってしまった窓からも認めることができるようになります。
耳を澄ますとそれに少し遅れて彼の中でも新しい季節の躍動がはるか遠くから聞こえて来ます。

新しい季節の折り紙が 黄緑色の野原に変わる

彼は忘れていても 生命の力は彼を忘れてはいなかったのです。
やがて彼の中の季節が動き始めます。
彼はマドに着いたトラウマとかコンプレックスというほこりをかじかんだ手で拭き取ると、大きく窓を開け放します。
そしてあたらしい春の空気を胸いっぱいに呼吸するのでした。

水仙は、西洋では「ナルキサス」と呼ばれ、その語源はギリシャ神話に登場する
ナルキッソスに由来します。美少年ナルキッソスはその美しさ故に多くの女神から愛されますが、それに応えることはありませんでした。
ナルキッソスに想いを寄せたアメイニアスとう女性は、ナルキッソスに冷たくあしらわれて絶望し、自ら命を絶ってしまいます。
また、森の妖精エッコーも
「君はいつもぼくのことばを繰り返しているばかりでつまらないや。」と言われ
悲しみと屈辱のあまり、エッコーはやせ衰えて声だけの存在になってしまいます。
これを知った女神メネシスは激怒し、ナルキッソスに自分だけしか愛せない呪いをかけます。これがナルシシズムの語源でもあります。
メネシスはナルキッソスを水辺におびき出します。
水面に映った自分の姿を見たナルキッソスはその美しい姿に恋に落ちます。
そして水に身を投げて亡くなってしまいます。
そのあとには水辺には一輪の美しい花が咲きました。
それが水仙、ナルキサスの花というわけです。
ところで水に映った自分の姿が自分だとわからずにその姿に恋をしてしまうとは、なんと愚かなことでしょう。
しかしこれはだれでも陥る罠のようなものです。
水に映った姿を見てそれが本物の自分の姿だと思う人はいないはずです。なぜなら本当の自分は「今 ここに」あるとわかるからです。
本物の自分は「今 ここにある」とわかる。ということを忘れないことです。
「今ここに」とは時空間を単に元いた場所に移動することではありません。
時空間という抽象化された生の在り方からそれ以前の今起こりつつある生にもどるということを意味しています。
しかしこれが水や鏡ではなく別の物だとどうなるでしょう。
他者は自分を映す鏡であるということばがあります。
自分がどう他人に思われるか、社会からどのように評価されているのか、SNSなどのネットの上での評判はいかがなものなのか。
それらの中に自分そのものの姿があるように感じてしまう人も少なくないはずです。
そんなときにもう一度水に映っているのは本当の自分ではないと思い出すことは大切なことです。
映画を見ていると知らずしらずに映画の中の登場人物に自分を投影していることがあります。登場人物の心の痛みを我がことのように感じて涙したりします。
これもまた水に映った自分の姿を自分として見ているわけです。
映画の場合は、やがてENDマークが出て映画から解放されますが、人生という写し絵はそう簡単には終わってくれません。
人生が終わった時、映画を見終えた観客が席を立つように自分の人生から解放されるのかもしれません。
しかし人生を終える前に映画館の席を立つことは可能なのでしょうか。
それについて語ることは私には荷が重すぎます。
それはブッタやソクラテスなど多くの先陣たちが語ってきたことです。
少々風呂敷を広げすぎたかもしれません。
そこで最後にアドバイタ(非二元論」の米国女性 Jジョーン・トリフソン)のことばを紹介してこの解説を閉じたいと思います。

以下 引用です。

199ページ
私が人々に 試してみるように薦めているのは

200
ここ今で ただ目覚めていながら気付いていること
実際の直接の経験に対して開かれた注意を向け何が現れてもそれを邪魔や妨害として捕らえず、どんな意味でも変えたり加減しようとしたりしようとしないことです。
これは肘掛け椅子に座って静かにしているときでも
通勤で市バスに乗っている時でも
診察の前に待合室にいるときでも
飛行機に乗っているときでも
公園のベンチに座っているときでもいつでもできます。
自然の中を歩いているときでも、
町中を歩いているときでも可能です。
台所でも刑務所でも病院のベッドでもオフィスでもできます。
ちょっとの間それが数秒であっても数分であっても数時間であっても数日であっても
一つの実験として雑誌や本やアイパッドやスマートフォンを片付けてみてください。
コンピューターやラジオやテレビのスイッチを切ります。編み物も数珠も片付けます。
そして何も手にしないで、ただ今にいてみてください。
何が姿を現すか。
車がシュッと通る音、鳥のさえずり、他の部屋のテレビの微かな音。
緑の葉からぶら下がる雨滴、側溝に落ちている煙草の吸い殻、
青空を漂っている雲、花の香り、
市バスの排気ガスの匂い、雨で湿った空気の甘さ、
呼吸、胸の緊張、
胃のむかつき、肩の痛み、
暑さや寒さの感覚、その全てに浸透する広がり、
こうした探求に寄って思考の観念的な領域から出て概念とは関係の無い感覚的な気づきの領域に移ります。

201
それはうつろいやすさ、儚さ、広がりを感覚で直接経験させてくれます。
呼吸 音 身体感覚は掴むことも持ったままでいることもできません。
境界も途切れもない動きです。
実際には考えたり概念化したりする動きも境界や途切れの無い動きなのですが
思考や観念を見るよりも感覚的な知覚を経験するときの方がずっと簡単にそのことに気付くことができます。
思考のない気づきとしてここにただ居ることによって全ては変化しているということ
生の全ては途切れが無く分離の無い動き 存在だと言うことを直に経験します。
自分と今この瞬間に起こっている出来事の間に距離はありません。
全く何も媒介していません。
これがまさにあなたです。
思考が現れた時それが思考に過ぎないこと、
追いかける必要も信じる必要もないかもしれないということ。
思考が主張するのと違ってその思考は現実を客観的に伝えているわけではない
いうことを観ることができるでしょうか。
こうした思考が観念的な映画やストーリーをどれだけ素早く生み出すか。
そしてそのストーリーがどれだけ魅惑的か。
どれだけ事実のように感じられるかということを観ることができるでしょうか。
考えることと感じることの違いがわかるでしょうか。
今の瞬間にただ注意を向けるだけで苦しみがどのように作り出され維持されるか
そして苦しむことなく痛みや困難な状況に向き合うやり方があるかどうかを発見するかもしれません。

202
あらゆるものが今あるままで絶妙に美しく完璧であることに目覚めるかもしれません。
これが本当の瞑想なのですが、
瞑想と呼ぶ必要はありませんし、
どんな呼び方もしないのがおそらく一番良いでしょう。
この単純な気づきは形式に従ったやり方をしたときに起こるかもしれませんし
台所でコーヒーを飲んでいるときに自然に起こるかもしれません。
どう起こるとしてもそれかその瞬間に起こりうる唯一のやり方です。

※「つかめないもの」(覚醒ブックス) ジョーン・トリフソン著 古閑博丈訳

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