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2020-01-19

散文「いってらっしゃい」

いってらっしゃい画像

 

海の見える二階の部屋で
二人は話をしていた。
二時間ほど話してから ぼくは言った。
「ちょっと トイレに 行ってきます。」
するときみは軽く笑って
「イッテラッシャイ。」と言った。
それから半時間ほどして きみが言った。
「トイレに行ってきます。」
きみがそんな風に言ったのはとつぜん目の前からいなくなると
ぼくがとまどうのではと配慮してくれたせいかもしれない。
でも ユーモラスな響きもあったので
「行ってらっしゃい。」と僕は微笑して言った。

あるときテレビのドラマを見ていたら 女優さんが
「トイレに行ってきます。」と言ってその場を外す場面があった。
テレビトラマの中の女優さんたちはあまりトイレには行かない
だからぼくにはそれが新鮮に思えた。

発表会の日、生徒さんたちの演奏を聞きながらぼくらは出番を待っていた。
自分の順序を慎重に確認して少し早めに隣のきみに行った。
「トイレに行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」ときみが少しまじめな声で言った。
ぼくが帰ってくると、こんどはきみが「トイレに行ってきます。」と言った。
「いってらっしゃい。」と僕もまじめな声で言った。
まるでイッテラッシャイのバトンをつなぐかのように。

発表会が終わると きみの車で自宅まで送ってもらった。
「きょうはおつかれさまでした」とお互いに別れの挨拶をかわしたあとできみは言った。
「あした福島に帰ります。次に出てくるのは年が明けてからになると思います。」
「そうでしたか。」とぼくは言った。
気の利いたあいさつは何も言わないままに。

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