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2020-04-30

コロナの春の理髪店

理髪店の外観の絵

 

髪をなでながらそろそろ行っておいた方がいいかもしれないと思った。
実は先週にもそうしようとしたのだが、何となく見送ってしまった。
ところが四月の無為化に政府の非常事態宣言が出て、しまったと思ったが、どうやらまだ店の方はだいじょうぶらしい。
コロナに対してはまだこの町では発症者は一人も出ていないせいもあって町の人はわりとのんびりと構えている感じだ。多くの人はマスクをしたり 人との接触に気を付けているが、そうでない人もときどき見かける。

コメディアンの志村けんさんや女優の岡江久美子さんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなったというニュースを聞くと、わかっていたことではあるが、あの人たちも特別な人間ではなかった。
ちょっとした道の分かれ目でコロナの犠牲者になってしまったという感じではっとさせられるが、やはり身近な人がそうなってみないと本当の意味での緊張感を持てないところは私にもある。

それでも最近気になるのは発症者の多い都会からほどんど発症者の出ていない地方に人が移動し始めていることだ。私の隣の別荘にも三日ほど前から人の動きがあり、今まで人気のなかったマンションにもおおくの明りがともるようになったという。
政府もこの動きを警戒して 非常事態宣言を最初の七都県から全国に拡大した。
外房の海岸でもサーフィンで来る人のながれを止めるために町の公営の駐車場をみな閉鎖してしまった。それでもこの流れはなかなか止まらないようだ。
私はこうした人の動きを戦争中の疎開になぞらえてコロナ疎開と呼んでいたが、マスコミでもコロナ疎開と呼び始めているので、考えることはみな同じだ。

いつもの「あべどこ」に電話をかけて「今日はどうですか。」と聞いてみる。
すると奥さんが出て、「だいじょうぶです。今からお迎えにあがります。」と明るい声が返ってきた。
電話に出たのは奥さんの方だったが、迎えに来たのは店の主人の方だった。
中に入ると他に客はなく、テレビの音が低くながれているだけの静かな店内だった。
そこにはいつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
私にとって理髪天というのはいつもそんな場所だ。
なんとなく ひとつ 俳句が浮かんだ。

なにごともなき 春一日(ひとひ) 理髪店

ふだんと違うことといえば、入った時に主人に手をアルコールでふいてもらったことぐらいだった。
三台ある椅子の真ん中の席で奥さんに頭をやってもらった。
「鼻炎の方はどうですか」と奥さんに聞かれた。
「春はやっぱりよく出ますね。でも まあ 症状がでたときだけ売薬を飲んでしのいでいます。」と私は答えた。実は奥さんも私と同じ鼻炎の持ち主だった。
花粉症というのではないが、アレルギーの鼻炎があるのだった。柑橘系がいいとかあの漢方薬がよさそうだとか 私がいろいろと話すので奥さんも興味があるらしい。
しかし今のところ決定打になるようなものはなかった。

「今次男がドイツにいるんですよ。」と奥さんが言った。
コロナが始まる前にもそんな話を聞いたことがあった。そのときはどこか誇らしげでもあったが、いまではそれが心配の種となっている。
ドイツでもコロナが流行して、イタリアやスペインほどではないが、それでも多くの犠牲者が出て、ロックダウンのような行動規制が行われているらしい。
「まあ でもドイツはメルケルさんががんばってやっているからほかのヨーロッパの国よりはだいぶましじゃないんてすか。難民対策では支持率がガタ落ちだったけど今回のことでだいぶ挽回したらしいですよ。」と私は奥さんを安心させる様なことを言いながら、メルケルさんなどと慣れないさんづけで読んでみると、この東独生まれの女性宰相が たのもしく感じられて来るのが不思議だった。

洗髪がすんで ドライヤーが始まったころ、お客が入って来た。
「あら、鈴木さん。」と奥さんは言うと、
家の奥に引っ込んでいる主人に「おとうさん、鈴木さんが来たよ。」と大きな声で言った。
まもなく店の主人が出てきて、後ろの長いすで話始める声がした。
「今日は行って来たんですか。」と主人が聞くと、
「うん、でも今日は流れが速くてだめだったよ。」と客の声。
それだけではなんの話しだか わからない。
頭が終わると、椅子が反転して私は椅子から降りた。
コーディロイのズボンのポケットから二つ折りした五千円札を伸ばして奥さんにわたすと、八百円を受け取った。
「コーヒーはいかがですか」と缶コーヒーを差し出されたが、いつものように断ると、
「じゃ行きましょう。」と主人に手を引かれて外に出た。

車で家まで送ってもらいながらさっきの鈴木さんのことを聞いてみた。
「あの人は御宿に住んでいる人なんですか。」
「いや、東京の人なんだけど こっちにマンションを持っていて 昔からよく釣りをやりに来るんですよ。」と言った。
「そうなんですか。」
どうやらコロナ疎開の人というわけではなさそうだった。この店の主人も無類の釣り好きで、頭をやりにきたときに釣りの話でもりあがったのにちがいない。
「じゃあ いい釣り仲間じゃないですか。」
「そうなんですよ。いっしょに釣りに行って、いいものが釣れると、鈴木さんのマンションでそれをさかなにお酒を飲むんです。さかなもあの人がさばいてね。それでこっちもお酒を飲んじゃうから、奥さんに迎えに来るようになんて言うんですよ。」と言った。
「へえ、共通の趣味があるっていうのはいいですね。」
「もう八十歳になる人なんですけどね。社長さんなんだそうで。名前が鈴木さんっていうんですよ。」と主人が言った。
「はあ。」と私、
「社長で鈴木さんなんですよ。」
と主人が繰り返して言った。
それで私もようやくピンときた。
「なるほど、スーさんっていうことですね。鈴木さんがスーさんで、あべさんは西田さんの役どころというわけですね。」と言って笑った。
西田敏行と三國連太郎が主演していた映画で人気のシリーズだった「釣りバカ日誌」のスーさんのことだったのだ。「いい仲間じゃないですか。」
「そうですけどね。でもこっちは一応気を使いますよ。釣りをするときもどこのポジションに座るか、スーさんに先に選んでもらうようにしてね。」と笑って答えていた。
家に着くと、主人はあいさつをして帰って行った。
私は玄関のガラス戸を閉めながら 動き始めた車に向かって軽くおじぎをする。
自分はなにもしていないのに一仕事終えたような気がした。
果たしてこの次に頭をやりに行くのはいつのことかと思った。

(2020年 4月)

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