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2020-01-27

随筆「今日と同じような明日が来ると感じられない人たち」

砂の上の犬の足跡の絵

 

朝のNHKのテレビニュースを聞きながら朝食の準備をしていた時でした。

突然ニュースで、福島県いわき市で起きた殺人事件についての報道にドキッとしました。
友人がいわき市在住で、報道の中に被害者の1人は40代女性とあったからでした。
まさかとは思いましたが、心配になってきました。

でも本人に「大丈夫ですか」などと直ちに尋ねるようなことはできない私です。
友人には私のホームページの制作をお願いしていて、ようやく仕事がのってきたところでした。もしも友人が亡くなってしまったら、今作っているホームページも建築中に資金切れで立ち往生して、雨ざらしになっている建物のようにそのまま置き去りにされていしまうのだろうか。そういえば年末のブログに「断捨離をして今まで捨てられなかった物をまとめて処分しました」とあり、「これは死への準備なのかもしれません」などと書いていて、そんなこと言わないでよと言ったものでした。

しかし夜になると事件の詳しい情報が明らかになり、被害者の名前が公表され、友人とは別人であることが判明したのでした。
被害者が友人である確率はかなり低いものでしょう、しかしこんな時、私には最悪のことを考えてしまうところがあります。

以前こんなことがありました。
いつも楽譜読みをお願いしている女性がいるのですが、何かの都合で彼女が日程を変更して欲しいと言うので、いつもと違う曜日にスケジュールを入れたことがありました。
ところが当日になっても彼女は来ませんでした。うっかりして当日のことを忘れてしまったようでした。
次回に会った時、彼女はごめんなさいと言っていましたが、そのあとで、
「でも『あれ、どうしたの?』とか、電話でも入れてくれればよかったのに。」と言っていました。

なぜかこういうことがあった時、わたしは最悪のことを想像してしまうのです。例えば自分で電話をかけられないほどの病気になってしまったのではとか、家族に急病人が出て、電話をかけることも忘れてしまっているのではとか、そんな暗いことが胸をよぎるのでした。

どうしてそんな風に感じてしまうのか、考えてみると、それは自分が思いがけなく障がい者になってしまったことと関係があるのではという気がします。普通、人は自分が身体障がい者になることなど想定して生きているわけではありません。なぜなら普通、身体障がい者になる確率はそれほど高いものではありませんから。にもかかわらず、自分が視覚障がい者になってしまったということは人生においてはどんなことも起こりうるのだという受けとめ方をすることになります。

私は今日と同じように明日が来ると感じられない人なのかもしれません。
とはいえ、自分の明日のことについては全く暗いイメージを持つことはないのです。
むしろ、わくわくした気分の方が強いでしょう。

障がい者というできごとについては引き受ける用意はいつでもできているつもりです。
それが他者、とりわけ近しい人のことになると、なぜかこんな風に心配してしまうのです。
きっと自分の中にある、安らかではいられなかった少年時代のことが残っていて、それが近しい人に起きた出来事へと投影しているのでしょう。
いずれにせよ、人生には何かが起こることがつきものだという思いがあることは確かです。
その意味で、私は今日と同じように明日が来ると感じられない人なのかもしれません。

そういえば、シンガーソングライターの宇多田ヒカルさんも同じようなことを言っていました。
宇多田さんの場合は、その原因は精神に疾患をかかえていた母親の存在にあったとのことでした。
言動が不安定で、例えばその日に突然「これから飛行機でニューヨークに食事をしに行きましょう」などと言ったりするらしいのです。いつも振り回されていたようでした。
そう言われると彼女の歌の中にはそういう心象風景を歌っているものがあるように感じます。
例えば、2018年のアルバム「初恋」の最初の曲「Play A Love Song」の歌詞には

 

傷ついた時僕は
一人静かに内省する
深読みをしてしまう君は
不安と戦う

~中略~

友達の心配や
生い立ちのトラウマは
まだ続く僕たちの歴史のほんの注釈

~中略~

僕の親がいつからああなのか 知らないけど
(大丈夫、大丈夫)
君と僕はこれからも成長するよ
(大丈夫、大丈夫)

落ち着いてみようよ一旦
どうだってよくはないけど
考え過ぎているかも
悲しい話はもうたくさん
飯食って笑って寝よう

~略~

(作詞:Utada Hikaru 作曲:Utada Hikaru)

とあります。
不安定な明日を懸命に受けとめようとしている彼女の一生懸命さが伝わってくる歌詞です。

さて、ここまで書いてきてふと思うことがあります。
今日と同じような明日が来ると感じられない人たちというタイトルですが、
正確には、
「昨日と同じ今日が来ると感じられない人たちではなかったか」
ということです。

明日が不安という話ではありません。
明日が不安というのは、例えば老後の心配のような話でしょうが、そこに不安があるという話ではありません。
今日起きてしまったことに昨日までのことがよみがえってくるという話なのでしょう。
日常という底抜けの平凡で単調な時間の連続というものが信用ならないことを知ってしまった故のことなのかもしれません。
そんなときどうすればよいのでしょう。
何もせず、このままでもいいような気もしますが、
どういうものでしょうか。

足元の氷の割れ目から覗いている暗い海を見つけてしまった者は、表現することの衝動をかかえることになるのでしょう。
同じ気圧の間に派風は流れませんが、低気圧が発生するとそこに向かって風が流れ始めるように、
こころの中に低気圧を持っている人は表現に向かう上昇気流を自分の中で作り出すことがあるのでしょう。

だとすれば、足元の氷の割れ目に除いているくらい海もまた一つの自然の景色として受け止めながら表現という風に身を任せていくしかないのかという気もします。

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