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2021-11-15

短編ファンタジー集|天ぷらしぐれ「川鯉がザブ」③

鯉のいる水辺にあやめの絵

 

温郎はすっかり話に引き込まれていました。知らないうちに口を大きく開けて息を話しに集中していました。清水老人の話を聞いているうちになんだか本当にそんなことがありそうな気がしてきたのです。もしもそんなことが見られるのならこれはもう何が何でも見てみたいものだと思いました。
それから清水老人は自分が今の温郎のころにそれを実際目撃したという話をしました。
丁度そのとき清水老人はまだ旧制の中学の三年で 友達の実家のある南房総の養老渓谷という所に遊びに来ていたときだったそうです。
朝に一人で谷川の小道を散歩していると突然川霧の中から木の葉模様のぼろ布をまとった白髪を背中の方まで延ばした老人が現れたそうです。
清水老人はそのときもしかしたら「ああ、この人が世にいう仙人というものかもしれないと思ったそうです。
その仙人のような風貌をした老人がじっと谷川をのぞきこんでいたので 中学生だった清水老人は「なにか漁でもしてるんですか」と聞きました。
するとその仙人が「私は空から光の綱が降りてくるのでそれをつたってこれから天に昇るところだ。」と言ったそうです。そんなばかなことはと清水老人は思いました。
昔といっても満州事変のころの話です。もうそのころの学生はことに旧制中学の学生ぐらいならひととおりの科学知識は持っています。
そのときザブという音がして川の鯉がはねました。それまで見たことのないようなとても大きな鯉でした。その瞬間西の空から一筋の光の綱が降りてきたかと思うとその老人はあっという間にそれをつたって天に昇って行ってしまったのです。後にはうっすらと桃色がかった川霧だけが残っていたそうです。
それからというものしばらくは清水老人は何も手に着かなくなりました。一時は自分もあの老人のように仙人の修行をしようかとも考えたようでしたが時間が経って熱が少し冷めてくるとそんな雲をつかむ様な話に一生をかけるわけにもいかないしそれに戦争の足音がしだいに高まりつつある時代にもっと確実に手っ取り早くこの世界についての答えを出してくれるものを清水老人は選択したのでした。それがもともと好きだった数学の道だったということです。
「どうだ、おまえさんにはとても信じられない話だろう。」と清水老人は言いました。
しかし温郎は清水老人の話を聞いているうちにとても不思議な気持ちになっていました。いつのまにか旧制中学の学生だった清水老人の姿に温郎は自分を重ねて聞いていたのです。そして目の前の清水老人を渓谷に現れた仙人のように感じていました。
「ああ、いいな。ぼくもそんな風に天に昇ってみたい」と温郎は思いました。
温郎にはそこは見知らぬよそよそしい場所というよりも なにかなつかしい場所でもあるかのように感じられたのでした。
「でもぼくだって実際自分の目で見れば信じてもいいけどね。」と温郎は言いました。
「はハハ、そうか、じゃあ運がよければ私がやって見せてあげるからな。そのときはよおく見てるんだぞ。」と清水老人は言いました。
「アッ、はい。」と どこまで本気なのか冗談なのかと思いながら温郎はうなずきました。
そのとき空からぼたぼたと大粒の雨が降ってきて最初に温郎が続いて清水老人が空を見上げました。
空から湿ったひんやりとした空気が芝居の緞帳のように降りてきていました。
「とうとう降ってきたな。いいぞ。だんだんいい雰囲気になってきたぞ。」と清水老人は言いました。
「ほんとですか。ほんとにやるんですか。」温郎もさすがに胸がどきどきして来ました。
ところがそのとき近くの橋の上で温郎と同じ中学の生徒が四・五人がやがや話している声が聞こえてきました。がやがやといってもこのがやがやは楽しいおしゃべりのがやがやではなく車のクラクションのようなどきっとするがやがやなのでした。
清水老人はまだ気がついてはいませんでしたが、その声はいつも温郎をからかってはばかにしたりして喜んでいる二吉(にきち)とその仲間たちの声でした。
でも温郎はあれっと思いました。というのも二吉は先月父親の仕事の都合で北海道へ転校して行ったばかりだったのです。
きっと忘れ物か何かでもしてこの町にもどって来たのかもしれないと温郎は思いました。
二吉は丁度仲間を連れて歩いているところに温郎の姿を見つけたらしいのです。
「困った」と温郎は思いました。自分だけがやられるのならなんとかやり過ごせばいいのだけれど今日は清水老人がいっしょなのです。
でもどうしたらいいのか考えもまとまらないうちに二吉とその仲間たちはもう橋を降りてこちらに向かって歩いて来るではありませんか。
二吉とその仲間はあっという間に温郎と清水老人の座っているベンチを囲んでいました。
「温郎、そんなところでおかしなじいさんと何を話してたんだぁ。おれたちにも聞かせてくれよ。」
からだの大きな二吉がそう言うといっしょにいる三・四人の仲間たちも「おお、そうだ、そうだ。おれたちにも聞かせてくれよ。」と
おもしろがって言います。
温郎が隣の様子をうかがうと清水老人は二吉たちをにやにやしながらながめています。清水老人の着ているさけの皮から作ったという服は大粒の雨を吸ってなまり色に光って心なしかふくらんで見えました。
「このじいさん、へんてこなかっこうしてるじゃねえか。魚の服かよ。さかなくさいぞこのじいさん。」
二吉がそう言うと、仲間の連中も
「さかなくさいぞ、このじいさん。」と声を合わせて言いました。

(短編ファンタジー集|天ぷらしぐれ「川鯉がザブ」④に続く)

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