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2022-01-22

今月の俳句「十二月」2021

12月カレンダーの絵

上げ底の月ぞ 師走は 床屋行く

十二月も半ばを過ぎると 今年も終わりという感がつよくなる。
二十日を過ぎるともう新たに仕事を始めることもできない雰囲気に包まれる。
みかけほどに中身がないパッケージのことを上げ底というが、十二月はまさに上げ底の月であることをいつもながら実感させられる。

 

海鳴りの 遠く近くに 冬の月

寝室の窓の端から月の光らしいものが差し込んでいる。
風の強い晩 その窓から海鳴りが聞こえる。
それは強くなったり ときに弱くなったりを繰り返す。
窓は海側にあるわけではない。
いや海とは反対側の窓から聞こえている。
つまり海鳴りは建物や丘陵に反響し、夜の浜を包み込むように聞こえているのだ。

 

合唱団の マスク動く子 動かぬ子

コロナが峠を超えたせいか、合掌の発表会もちらほら始まっているようだ。
地域の合唱段に所属している知人も発表会で歌ってきたとのこと。
基本的にはマスクを着用だったとのこと。学生たちの合唱段の様子を見ていると 歌いながらマスクが動いて鼻が出てしまったり、それを気にしてやたらに指をマスクに当てている子もいたという。
それに引き換え整然と マスクなどしていないかのように歌っている子もいたりして悲喜こもごもというマスク歌唱だったとのこと。
想像するにやはり歌い方にもよるのだろう。
やたら口を大きく開けようとして顎を上下するとマスクは外れやすくなるし、また基本通りしっかりと顎を引いて歌っている子は比較的マスクも安定しているのかもしれない。

 

北風の 点字ブロック まっすぐに

北風が厳しくなる これからの季節

点字ブロックを白杖でたどりながら歩いていると北風の抵抗を受けることになる。
そんなとき点字ブロックの上と言うのは風の通り道でも在ることを実感させられる。

 

曇天に 夕日こぼれて 蜜柑剥く

このおでん おまけの辛子 忘れてる

コンビニでときどきおでんを買うことがある。
商品によっておまけの辛子が着いてくるものと着かないものがある。
店員によっては 着かない商品にも付けてくれるひともいれば。
厳格に規則にしたがっている者もいる。
同行したヘルパーさんは
「あんなにたくさんあるんだから付けてくれればいいのにね。けちなんだから。」
と言っていたが。

 

優雅にも 小指をかんで 冬の蚊は

真夜中の寝室 彼女は ふわふわと優雅な羽の羽ばたきを聞かせて眠っている私に近づくと 布団からわずかに出ていた左手の小指の端をかんで いずこともなく夜の奥へと姿を消して行った。
ニュースで「小指の思い出」などのヒット曲で有名な作曲家の鈴木淳(じゅん)さんが逝去されたことを知ったのはその翌日のことだった。

 

七人の 小人の名前 山眠る

山眠るは 冬の季語。例えば 春は 山笑うである。
七人の 小人と言えば森の中で白雪姫を助けて活躍する小人たちのことを連想してしまう。
然し彼らの名前が何かと問われると記憶にはない。
名前を知られることの不都合が彼らのような存在の者にはあるのかもしれない。
自分たちの仕事を終えた七人の小人は森へ帰っていく。
彼らも森の一部であるかのように。

 

ベートーベンといふ 鬼を呼び寄せ 年の果て

日本では歳末になると ベートーベンの交響曲第九が全国各地で演奏される。
これについて宗教学者の中沢新一が興味深い開設をしていた。
彼によると日本では古来 霜月と呼ばれる十一月から十二月にかけてのこの時期には 霜月まつりと呼ばれるお祭りが各地でおこなわれていて、そのお祭りでは鬼が重要な役割を果たしてきたという。
秋田県のなまはげなどは現在にも伝えられている鬼のお祭りである。しかし近代化が進むにつれてこうした鬼のお祭りは日本人の歳末の風景から消えつつあった。
しかし鬼を求める日本人のメンタリティは依然として意識の不快ところで継続していて、それがベートーペンの第九へと繋がっているのだという。
中沢新一によればベートーペンこそは西洋音楽における鬼であり。その音楽は常にデモーニッシュな側面を有していたという。
確かに以前の音楽の常識を破壊し、妥協することなく、頑強に自らの音楽を打ち立てて来た彼の姿は日本に置けるいい意味での鬼といえそうである。

 

浜通り 行く人の背に 除夜の鐘

 

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